千住葱

千住葱

千住葱, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3646022 / CC BY SA 3.0

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千住葱 千住葱(せんじゅねぎ)は、かつて足立区を中心に栽培されていた江戸野菜で、千住河原町付近にある市場で取引される葱の総称をいう。
大坂城落城後に現在の江東区砂町に種を持ち込まれたのが、葱栽培の始まりとされている。
2017年(平成29年)現在、埼玉県下の農家が栽培した葱が取引されており、少量ながら足立区内でも栽培されている。
葛飾北斎 『富嶽三十六景』より14番 『武州千住』 ネギ属は主に北半球に分布し、500種以上を含んでいる。
この属にはタマネギ、ニンニク、ネギなどのように数千年前から栽培された古い野菜が含まれる。
ネギの原産地は中国西部またはシベリアとされる。
原種はアリウム・アルタイクム(Allium altaicum)といわれ、ネギより草丈が低く球は小さい。
中国では約2200年前の『礼記』などに記述がみられ、その頃には栽培されていたと推定される。
ネギはヨーロッパ(16世紀末)、アメリカ(19世紀)に伝わっていたがあまり普及することはなく、東洋(特に日本)で多く栽培がみられる。
日本に渡来した時期は古く、『日本書紀』の仁賢天皇6年9月(493年)に「秋葱(あきぎ)」の名が出ている。
『本草和名』(918年)では和名「岐(き)」、『和名抄』(931年)では葱、和名「紀(き)」、冬葱を「布由木(ふゆぎ)」と記述していて古くからネギの栽培がおこなわれていたことがわかる。
千住葱の原産地は江戸東部にあった砂村(現在の江東区砂町)とされる。
起源としては天正年間(1573年~1593年)や大坂城落城時(1615年)と諸説あるが、大阪から種子を持ち込まれ、品種改良・育成を重ね葛飾・足立に広まったといわれる。
原種となったネギは、「難波葱(なんばねぎ)」という説がある。
このネギは中国から渡来してきたネギが大阪に定着したもので、さらに大阪から京都に種が運ばれて風土に合わせて改良されたものが「九条葱」となったという。
難波葱の種を大阪から砂村に運んで栽培したものが「砂村葱」となり、砂村葱が千住付近で栽培されたものが本種とされる。
本種の本格的な生産は明治中期以降とされ、この時期に産地名にちなんで「千住葱」とよばれるようになった。
当初は青い部分を食す葉葱であったが、江戸の気候が大阪に比べて寒く霜枯れするため、白い部分を食すようになり、更に土寄せをして葉柄部分を軟白するようになって、現在の根深葱の形態になった。
千住葱は千住青物市場に出荷され、その質の良さから名声が高まった。
蕎麦屋を始めとした業界筋からは「千住葱でなければ」と評されるほどの品質を保っていた。
第二次世界大戦の時期、千住葱は他の野菜類とともに受難の時期を迎えた。
栽培は徐々に減らさざるを得なくなり、品種を維持するのがやっとの状態だった。
終戦後の立ち直りは早かったが、これはネギ類の交雑性の低さに加えて自家採種による種子の保存が功を奏したものと考えられる。
ネギ類は栽培期間が長く、広い農地を有している農家でないと栽培が困難になることから、都市化の進行や相続などで農地面積が小さくなった農家では栽培を断念せざるを得なくなった。
そのため千住葱の産地は、葛飾区新宿や埼玉県などの広い農地の残る場所に移って行った。
千住青物市場も1945年(昭和20年)に足立市場に移転し、1979年(昭和54年)9月には北足立市場に青果部が移転した。
ただし、千住葱商組合は千住青物市場発祥の地である千住河原町に残留して「千住山柏青果物市場」で葱の商いを続け、「千住葱」のブランドを守っている。
JA東京グループは、葛飾区東金町の葛西神社に「千住ネギの産地」という屋外説明板を設置している。
2011年(平成23年)にJA東京中央会は「江戸東京野菜」を商標登録し、千住葱(千住一本ネギ)を含む34種類の野菜を認証した。
葛飾北斎による富嶽三十六景の14番「武州千住」の馬の背のカゴに入っているものは「葱」であるという説もある。
ネギは古くからある野菜としては変異性が強くないため、品種数はそれほど多くはない。
中国から日本に渡来した時期に、すでに太ネギ(根深ネギ)と葉ネギ(九条ネギなど)に分化していたものと推定されている。
日本のネギは、加賀、九条、千住の三品種群に大別される。
加賀は太ネギで耐寒性に優れ、九条は葉ネギで年間を通して収穫される。
千住は太ネギ(根深ネギ)で秋冬に多く出荷されている。
ネギの生産は、愛知県を境として東日本では葉鞘の白くなった部分(俗…

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