谷中生姜, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1956234 / CC BY SA 3.0
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#ショウガ
#江戸野菜
#伝統野菜
谷中生姜とされている、薑(きょう)「本草図譜」巻之四十四 菜部葷菜類 谷中生姜(やなかしょうが)は葉ショウガの一種。
江戸東京野菜のブランド野菜でもある。
居酒屋などでの符丁で「ヤナカ」といえば味噌などが添えられた葉ショウガが供されるなど、葉ショウガの代表的な品種である。
ショウガの歴史については 「ショウガ」 を参照のこと。
谷中生姜の名称にもなっている谷中の地名は、JR日暮里駅の南側に位置する谷中銀座商店街で有名な台東区谷中ではなく、日暮里駅北側に位置する、現在の西日暮里1丁目、2丁目、5丁目付近にかつてあった東京府北豊島郡谷中本村が由来である。
谷中本村は元禄(1688年〜)には集落が形成されていたという。
この地での生姜の栽培はある時、谷中本村の農夫が神田青物市場の勧めで種ショウガを三升購入したことから始まる。
1824年(文政7年)の『武江産物志』に記載があり、江戸後期の時点で谷中本村ではショウガが特産として知られていた。
1872年(明治5年)の文献『東京府志料』によれば谷中本村の生姜8450把に676円の値段がついているという記録が残っている。
出荷する生姜からはやわらかいので種ショウガは取れないため、費用面では毎年種ショウガを購入する必要があったことも原因のひとつとなり、谷中本村地域での栽培は衰退していった。
1903年の『東京府北豊島郡農業資料』によれば 何分種子購入ニ多額ニ費用ヲ要スルヲ以テ栽培ヲ増スコト遅々タルヲ免レ難シ とあり、種ショウガが高額なので栽培量を増やしにくいことが書かれている。
また流通や都市開発の要素としては、1883年(明治16年)に日本鉄道第一区の上野 – 熊谷間が開通したことで日暮里付近の市街地化が徐々に進んでいき、谷中本村付近での栽培が減っていった。
1889年(明治22年)に谷中本村は日暮里村となる。
さらに関東大震災後には日暮里周辺の農地が都市化によって減少し、結果的に栽培地は日暮里から三河島、尾久、など条件的に同様の低地に遷移していき、第二次世界大戦前には栽培される場所が埼玉などに北上していく。
ただし三河島ではコスト面と軟腐病などによりあまり栽培が根付かなかった。
谷中本村付近では大正期まで作られていたという。
谷中本村の流通や天候の地の利と技術が条件的にもよかったと考えられている。
1918年(大正7年)11月10日に発行されている『北豊島郡誌』によれば 日暮里の葉薑(ショウガ)は谷中薑と称し、名高かりしも時勢の変遷はまた耕種するの余地なきに至り、今や尾久村独り其の名を専らにす。
種類は谷中生姜の系統に属し、品質又相下らず。
尾久の薑に下らざるものは、志村大字根葉(ねっぱ。現在の板橋区蓮根)に産す。
根葉薑の名市場に高し。
其特色とする所は性質軟しして、食して繊維を止めず、多く漬物に用ひらる と書かれ、谷中本村と同様の低地で栽培されていたことがわかる。
東京都内では長らく栽培がされていなかったが、2000年代に入って東京西部のJA東京緑では20人の生産者が栽培しており、2014年、JA東京中央会により江戸東京野菜に登録された。
2020年現在、谷中生姜の産地は主に千葉県となり、ブランド名として谷中生姜の名称が使われている。
以下のような条件がある 現在の日暮里駅をはさむような形で、谷中銀座側でもある南側は武蔵野台地であり、北側は崖下と呼ばれる低地であったため、崖下に位置していた谷中本村は生姜を栽培するにあたって好条件だった。
低地のため水には不足しないが、川の氾濫などによる洪水被害も多かった谷中本村では、農家が船を所有していることも多く、流通手段として神田や日本橋に農作物を運搬することもあった。
年に一度の収穫の米作では水害が起きた時に一年分の被害が生じるので、畑で野菜を作れば年に何回かの収穫が見込めるため、被害が最小限で済むという理由からも野菜が作られていた。
また収穫後に鮮度が落ちやすいものは市街地に隣接している農村が有利であったため、この面でも谷中本村が好適地であった。
谷中、根津、千駄木に根差した地域雑誌『谷中・根津・千駄木』は1992年に谷中生姜を特集しており、日暮里で古くから農業を営んでいた家の子孫に話を聞いている。
横山家によれば「東向きの崖下で、高台から続く関東ローム層の下のさらさらした黒い土」が適していたこと、「清水がよく涌いた」こと、「埼玉の安行」の「ショウガの種を、千住のやっちゃ場で購入」していたと語られている。
また現在の荒川消防署音無川出張所…